聖母マリアの巡礼堂・別府カトリック教会の聖母マリア
別府カトリック教会
聖母マリアのご像と
聖ドン・ボスコのモザイク画

扶助者聖マリア

日本における
キリスト信者の助け手
聖マリア

別府の聖母巡礼堂別府カトリック教会

日本における信心

聖ドン・ボスコは、最初の宣教師たちにむかって次の方針を与えたのです、「助け手聖マリアとご聖体のイエズスに対する信心をいつもすすめなさい」と。日本におけるサレジオ会員たちもこの方針に従い、1964年富士山の二合目に扶助者聖母の立派なご像を立てて全日本を聖母のご保護に委ねました。

別府の聖母巡礼堂(別府カトリック教会)

  聖母マリアの巡礼堂・別府カトリック教会
別府カトリック教会



 年代順には、まず1950年12月17日に、別府の教会で壮厳な献堂式がおこなわれました。
 それ以前にも、すでにサレジオ会は、いろいろなところで、小聖堂、仮聖堂、あるいは、修道院内の小さなお聖堂をキリスト信者の助けて聖マリアにささげていましたが、この年はじめて、正式の大きなお聖堂を献堂することができたのです。
 別府で、助けて聖マリアに対する信心を熱心にひろめたのは、アルバノ・チェッケッティ神父でした。チェッケティ神父は、1935年に以前の仮聖堂を増築して、1938年には、別府市で、さいしょの聖母行列をおこないました。教会の境内でおこなわれたこの聖母行列は、当時の別府教会にとっては一大事件でした。その翌年もおこなわれましたが、のちに戦争にさまたげられ、終戦時まで中止をやむなくされました。(チマッティ神父箸「・・・年代記」)

別府ではまた、先にのべた「ロザリオ会」も設立されました。この会は、家庭でのロザリオの信心をすすめるのに大いに役立ちました。1948年には、アロイジオ・デルコル神父によって、聖母月の毎日、聖母についての説教がおこなわれました。これは、別府の教会としてははじめてのことで、その結果、信者の信仰生活の程度が高められ求道者の数もふえてきました。
 しかし、先任者たちの強いあこがれを実現させたのは、レオネ・マリア・リヴィアベラ神父であり、そのかげには、フランコ・アチェルビ神父とアルベリト・カスティリオーニ神父の、献身的な協力がありました。


 1949年6月1日、聖フランシスコ・ザベリオ渡来400年記念祭にさいして、同聖人の腕のとうとい入遺物は、別府にも運ばれ、その前で、福岡司教で宮崎知牧区臨時管理者であったドミニコ深掘司教によって、別府の新聖堂の定礎式がおこなわれました。

 

  聖母マリアの巡礼堂・別府カトリック教会

別府のカトリック教会

リビアベラ神父によって建てられたこの教会は、聖母巡礼堂として、扶助者聖母信心の中心となり、1949年6月1日、聖フランシスコ・ザベリオ渡来四百年記念に際して、同聖人の腕の遺物の前で定礎式、1950年に荘厳に献堂された。


 1950年12月17日、初代宮崎教区長であったモンシニョル・ヴィンチェンツォ・チマッティは、おおぜいの宣教師と信者たちにかこまれて、壮厳な献堂式をおこないました。この新聖堂は、コンクリートだての、ゴチック・スタイルの建物で、キリスト信者の助けて聖マリアにささげられたものでした。

 当時のサレジオ会管区長であったクロドヴェオ・タシナリ神父は、1951年1月28日付けで、つぎのように書きのこしています、「別府の人々は、町の中央に新しいお聖堂の堂々たる建物がたちまちにしてそびえてくるのをみて、なにか超自然的な力が働きかけているという印象をうけて、注意をひかれるようになっていました」(チマッティ神父箸「・・・年代記」)。


 おなじくタシナリ神父は、サレジオ会総会長レナト・ジジョッティ神父にあてた翌年の報告書のなかで、つぎのように記すことができました、「別府の聖母巡礼堂の活躍と重要性とは、日ましに高まっていきます。助けて聖マリアへの信心のよいえいきょうもあらわれ、信者はより熱心となり、助けて聖マリアの美しいお聖堂と、聖母のおん母としてのほおえみに魅せられて、求道者の数も日ましにふえてきます」(デルコル神父箸「1951〜1958年代の記録」)。

聖母マリアの巡礼堂・別府カトリック教会
聖母マリアの巡礼堂
別府カトリック教会

聖母聖年(1954年)の式典も、とくに記録しなければなりません。大分地区のこの式典は、別府でさらにかがやかしい表現をみせたのです。別府のお聖堂は、すでに、大分地区の信者たちの巡礼地となっていましたが、1954年10月7日の日曜日、聖母巡礼堂から満鉄の明星学園までの市内の目抜き通りに、最高の壮厳な儀式にのっとった堂々たる聖母行列がくりひろげられたのです。
 この盛大な行列には、当時の教区長ドミニコ深堀司教、元教区長モンシニョル・チマッティ師、サレジオ会日本管区長クロドヴェオ・タシナリ神父、および大分地区のすべての宣教師の指導のもとに、同地区の信者のほとんどが参加していました。参加者の数は、およそ1500名と推定され、大貞公園のドン・ボスコ学園のブラス・バンドも活躍していました(デルコル神父箸「1951〜1958年代の記録」)。

 こうして、別府のこの聖母巡礼堂からは、日ましにマリアのみ栄えが四方に広がって行きます。この巡礼堂にも、「ここは、私の家。ここから、私の栄光がひろがっていく」というおことばが当てはまります。それは、定礎式にさいして、親石につづりおさめられた願いの実現だといってもよいでしょう。親石には、「この民に、福音の光がさらにかがやかしく照りわたり、ゆたかなめぐみと永遠の幸福の保証として、マリアのみ栄えがあまねくひろがるようにとせつに願うと刻まれていました、(同「1951〜1958年代の記録」)。


参考「扶助者聖マリア」(デルコル神父著)
1969年1月31日 聖ドン・ボスコ    初版発行
1995年5月24日 
扶助者聖マリア    再版発行
「世のひかり社」出版


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2001/4/5up
マリアを通してイエズスへ[Ad Jesum Per Mariam] by Gracy (Japan)
キリスト教・カトリック・聖母マリア2000/11
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