1.マリアのやさしいほほえみ
さいしょのサレジオ会員が、当時の長崎司教コンバー師にまねかれて、はじめて日本に渡ったのは、1926年2月のことでした。
かれらが長崎の天主堂についたとき、かれらを迎えたのは、マリアのやさしいほほえみでした。聖母の美しいご像の台に、REGINA
MARTYRUM(殉教者のきさき)とAU−XILIUM
CHRISTIANORUM(キリスト信者のたすけ)ということばが記されているのをみたとき、かれらは大きなよろこびを感じました。
当時かれらは、日本のキリシタンの歴史を知りませんでしたので、自分たちのために道をそなえてくださった神のみ摂理のご計画を、それ以上深く見きわめることができませんでした。

長崎の天主堂
入り口の正面に立てられた
聖母の美しいご像
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じじつ、漢字で「日本之聖母」という尊称とともに、みぎひだりに「殉教者のきさき」と「キリスト信者のたすけ」と書かれていたこのご像(このご像は、1865年3月7日の歴史的な信者発見を記念するために、長崎の天主堂の内でなく、その入り口の正面に立てられたものでした)が、日本の初代司教ぶちジャン師によって 壮厳に祝別されたのは、1867年で、ちょうどそれと同じ年に、トリノでは、聖ドン・ボスコががたてた新しい大聖堂の丸屋根のいただきにおかれた、助けて聖マリアのご像が壮厳に祝別されたのでした。
しかし、当時の、長崎についたばかりのサレジオ会員たちは、この歴史的なつながりを考えることもできず、後年に実現してきたいろいろなできごとを、人間的には予見することもできませんでした。しかし、40年を経たこんにち、私たちは、神のみ摂理の感歎すべき道筋におどろかないではおられません。
2.新しい布教事業を聖母のご保護のもとに
1926年年当時の、日本に渡ったばかりのサレジオ会員たちは、「キリスト信者の助けて聖マリアという尊称のもとに聖母マリアをほめたたえ、祈りをむけるように」という聖ドン・ボスコの教えを体していたので、ご像の台にきざまれた文字も、これからの新しい布教事業を“助けて聖マリアのおん母としてのご保護のもとに始めるように”という新しい招きとしてしか考えませんでした。
それからまもなく、かれらは、宮崎の布教地をまかせられ、第一歩として、パリー・ミッション会のボンヌカーズ神父の指導のもとに、日本語を勉強しはじめました。
25年間もの長いあいだ、日本におけるサレジオ会会長であった疲れを知らないモンシニョル・ヴィンチェンツォ・チマッテイは、布教地ですごしたさいしょの5月について、こう書きのこしています、
「5月になりますと、私たちは、ほんとうにどう断定してよいかわからないようなことをしました。自分たちの力に過度の信頼をおいたためでしょうが?それともうぬぼれのためだったでしょうか?・・・・・・・いいえ、私はそう考えたくありません、それには、私たちの言語不足があまりにも明らかだったからです。
聖母をこころみて、私たちのあこがれだった恵みを、むりにでも奪いとろうとしていたからでしょうか?
ともあれ、助けて聖マリアの〔祝日のまえの〕九日間の毎晩、私たちはかわるがわる、天のおん母をほめたたえようと望みました。お聖堂に信者がおおぜい集まっている前で、私たちは、短い説教をよみました。たった1ページの短い説教を用意するのは、どれほど大変なことだったかは、神と、私たちのつかれきった頭だけがしっています。
お聖堂を出ると、信者たちは、いつもの親切さをしめして、おめでとうをのべにきましたが、かれらのいう儀礼的なことばも、私たちには一つもわかりませんでした。何年かあとになって、信者たちが当時の印象をはなしてくれました。
“ほんに、おかしいことじゃった!この神父さま方はお聖堂のなかでりっぱに話していなさるのに、お聖堂から出られて私どもが話しかけてみると、話せなくなるのじゃったから!”と。
なぜ、話せなくなったのか、私たちにはよくわかっていました・・・・・・・
でも、こうして私たちの布教ははじまったのです。そしてそのときに、なによりも先に、公に聖母マリアをほめたたえたいという、私たちの願いがかなえられることになったのです」(チマッティ神父箸「日本サレジオ会事業初期の25年間の短い年代記」東京(胯写版刷り)1951年発行、5ページ)。
3.ロザリオの信心をひろめて
日本に渡って以来サレジオ会は、自分の世話にまかせられた布教地に福音をのべつたえるとともに、青少年の救いのために、教育事業や社会事業を設立して経営しています。
霊的な実をゆたかにえることができるように、聖母マリアに対する信心を、とくに“キリスト信者のたすけ”という尊称のもとにひろめてきました。聖ドン・ボスコは、さいしょの宣教師たちにむかって次の方針をあたえたのです、「助けて聖マリアとご聖体のイエズスに対する信心を、いつもすすめなさい」と(聖ドン・ボスコが、さいしょの宣教師たちに書きのこした“思い出”から)。
日本におけるサレジオ会員たちも、この方針にそうように努力しました。
聖ドン・ボスコは、ロザリオの信心が、サレジオの会においてすぐれた場におかれるようにと望みました。そのために、会員たちだけでなく、生徒も、まいにちロザリオの祈りをとなえるようにと定めたのです。
父のこの教えを忠実にまもって、日本のサレジオ会員たちは、ロザリオの信心をひろめるようにつとめ、青少年にも信者にもたえずすすめてきました。
聖母にささげられた五月には、ロザリオをとくに壮厳にとなえ、そのあと、聖母に関する朗読や説教がおこなわれます。そして、信者の家庭でも、共同でロザリオをとなえるようにとすすめています。

別府カトリック教会聖堂内
聖母マリアのご像と
聖ドン・ボスコのモザイク画
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別府の教会では、終戦直後の、アルバノ・チェッケッティ神父の主任司祭当時、「ロザリオ会」というのがはじまりました。つまり、一信者の家に信者たちがあつまって、共同でロザリオをとなえる会のことです。じゅんぐりに信者の家でおこなわれるこのロザリオ会に、主任司祭が参加するのはつねであって、ロザリオをとなえてのち、信仰に関する話あいがおこなわれるのでした。このならわしは、今出もつづけられています。
信者たちはまた、つねにロザリオを身につけているようにとすすめられています。それは、いつも聖母マリアのご保護を祈りもとめるためです。
生徒にも(信者・未信者をとわず)、そして教会の信者にも、キリスト信者の助けて聖マリアのご絵やメタルをよく配りました。
洗礼式には、教皇聖下から祝福されたロザリオや聖母のメタルを記念としてあたえていましたが、それは、なによりもよろこばれる贈りものでした。
4.いろいろな聖母信心会
サレジオ会にまかせられたすべての教会では、キリスト信者の助けて聖マリアの大信心会が、教会法にしたがって正式に設立されています。
学校の社会事業、そして日曜学校にも、生徒の信心会がもうけられています。そのなかで、とくに聖母マリアをほめたたえるために設立されてたのが、いわゆる「無原罪のおんやどりの聖母マリアの信心会」です。この信心会は、聖ドン・ボスコの指導のもとに、聖ドミニコ・サヴィオによって設立されたもので、その目的は、とくべつな方法で、無原罪のおんやどりの聖母を尊敬し、その善徳にならい、友人間にその信心をひろめることにあります。
しかし、このような信心会はキリスト信者の生徒むきで、会員も限られるので、一般の生徒のために、いわゆる「ドミニコ・サヴィオ・クラブ」でおぎなうようにしています。「ドミニコ・サヴィオ・クラブ」の目的は、若い聖人サヴィオの美徳にならい、聖母マリアを知り尊敬することによって、イエズスから信仰のめぐみの取りつぎをねがうことにあります。
1927年12月5日付けのチマッティ神父の報告(トリノ、1928年度「サレジオ会会報」)をみると、サレジオ会員が日本に渡ってまもなく、遠くからドミニコ・ザヴィオ・クラブをかんがえさせるようなものがすでに試されていたのです。
しかし、じっさいに、活発で、みのりゆたかなクラブの設立をなしとげたのは、サレジオ会修士アロイジオ川部師で、1953年、宮崎日向学院で、この使徒的活躍がはじめられました〔くわしくは、デルコル神父箸「サレジオ会日本管区1951〜1958年代の記録」、イタリア語文、東京1958年発行、胯写版刷り、142−146ページ参照。この「年代記」は、チマッティ神父箸「日本サレジオ会事業初期の25年間の短い年代記」のつづき〕。
終戦後、サレジオ会にまかせられた若い男女のために、レジオ・マリエも発足しましたが、なかでも活発なはたらきをしたのは、大分教会、別府教会、東京下井草教会のレジオ・マリエです。
5.聖マリアの知識と愛と信頼とを
この霊的活躍ーーー聖母の祝日と月とにくり展げた特別な壮厳味、聖母をほめたたえるための祝賀会や演劇、聖母に関する音楽の演奏会などーーーもみな、すべての人に、キリスト信者の助けて聖マリアの知識と愛と信頼とを積極的に教えるためです。すでにキリストの信仰をもっている人々はその信仰を深め、まだ信仰の道から遠ざかっている人々は、天のおん母のご保護と取りつぎによって、この道に召され、また、これにはいる準備をするめぐみを注がれるためです。
キリスト信者の助けて聖マリアのみ名と栄光とが、たとい外部的な方法でも深くひろく知られるようにと、日本サレジオ会員たちは、助けて聖マリアにとくにささげられた巡礼堂や記念物を建てたいと、当初から強いあこがれをいだいていました。
このあこがれは、40年のみじかい期間に、意外な方法で、「地上にたわむれる」(格言の書8
31)神のみ摂理の「たわむれ」を連想させるような事情のもとに、奇しくもかなえられたのです。
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